携帯電話の着信音が鳴る。
非通知だ。
もしやと思い、心躍らせて出てみると期待通りの彼の声。
いつもと変わらぬその口調に、呆れつつも内心ほっとしている自分がいる。
彼は今日もお得意の推理に明け暮れているようだ。
いつもと変わらない。
それが、彼の日常。
小さい頃から彼と一緒だった。
私の隣にはいつも、楽しそうに推理小説の話をする彼がいた。
それが私の日常だった。
今私の傍に居てくれる人は、小さいけれど頼りになる、どこか彼と同じ空気を持った子供。
私が辛いときにはいつも支えてくれて。
一生懸命元気を与えてくれる。
嫌な訳じゃないけれど。
――――もしも、これが日常になってしまったら…?
そう思うと怖くて。
離れていても、前と違う環境になっても、時は変わらずに進み続けるから。
いつしか、彼のいない毎日が当たり前になってしまうんじゃないかと思うと、怖くて。
だから私も、いつもと同じ口調で同じ言葉をいつもと同じように繰り返す。
「早く帰ってきなさいよ、新一」
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それは、彼が探偵としての能力を初めて警察に認められてからしばらく経った後のことだった。
そろそろ日付が変わろうとしている深夜の時刻。意外な難事件に追われてロクに食事も取れぬまま新一は帰宅した。
体力の残りが限界に近くなっていてヘトヘトな状態だったが、その割に事件が解決できたおかげで頭はすっきりしている。
(とりあえず軽く夜食でもとってから寝るか。明日は学校があるしな…)
キッチンに向かうついでに電話の留守機能を解除しようとして、ふと気が付く。
留守の間に何件か電話があったようだ。しかしてその内容は。
「『えっと、私、蘭だけど。ひょっとして、事件の捜査が長引いてるの? 事件解くのも大事だけど、まだ高校生なんだからほどほどにしなさいよね』――――午後、10時32分」
「蘭か…ったく、相変わらず心配性な奴だぜ。余計なお世話だっつーの」
言いつつも彼は顔をほころばせ、次の着信メッセージに耳を傾ける。
「『蘭です。もしかして明日平日で学校があること忘れてないよね?』――――午後、10時45分」
「『ちゃんと夜ご飯食べたの? 帰ってきてお腹すいてもあんまり重いもの食べちゃだめよ』――――午後、10時54分」
その後も、そろそろ試験が近いけど事件ばかりで勉強できてるのか、とか。
朝ちゃんと起きられるのか、とか。
本を読まずにさっさと寝ろ、だとか。
約10分毎に彼女のメッセージが入っていた。
心配してくれるのはありがたい。ありがたいのだが。
「『まだ帰ってこないの? いい加減にしてよね、もう…』――――午後、11時43分」
「…………いい加減にするのはオマエだ」
メッセージは合計で8件。すべてあの幼馴染によるもの。
さすがの新一も次第に腹が立ってくる。文句のひとつも言ってやらねば気がすまない。
仕返しに今度はこっちから掛けてやろうか。つい先ほどまで電話してきたくらいだ、まだ起きているだろう。
現在、11時56分。
おそらく、もしかして。
いや、きっと。
Trrrr………
やはり。
完璧にキレた新一は、勢いよく受話器を取った。すると。
『あ、新一! 帰ってきたの?』
予想通り電話の主は蘭だった。
出るなり挨拶もなしか、いい根性してやがる。こっちは疲れて帰ってきたばかりだってのに、と、呑気そうな彼女の声に怒りが募る。
「『帰ってきたの?』じゃねぇ! いったい何回電話してくれば気がすむんだ、くだらないことで何度も何度も! モノには限度ってモンがあるだろうが! 少しは常識を知れ!! 大体オメーは」
『……た』
一気にまくし立ててしゃべる新一の声に彼女の声が重なった。彼女が何を言ったのか聞き取れなくて訊き返す。
『よかった、新一が無事で』
「…へ?」
思わず自分でもわかるほど間の抜けた声が出る。かまわず彼女は続けた。
『こんな時間まで帰ってこないなんてこと、今までなかったから…犯人に捕まって酷いことされてるんじゃないか、とかいろいろ考えて不安になっちゃって…。でもよかった。ちゃんと、帰ってきてくれて。』
声が出ない。
こんな言葉は予想していなかった。
てっきりいつもみたいに、頭使ってばかりいると禿げるとか、推理馬鹿とか、そんな憎まれ口を叩かれるものとばかり思っていた。
確かに事件を解決するのに深夜まで帰らなかったことは今まではなかったけれど。
一日や二日程度で解決できることなど実際には稀なことで。
これから先、捜査協力を頼まれれば下手すると帰れない日だってあるかもしれないのに。
そんなこと、いつも近くにいる彼女にはわかりきっていることだと思っていたのに。
こんなに心配させていたなんて………――――――――
その事実に、胸が痛いやら嬉しいやらで思考が混乱してしまった。
とどめに。
『お帰りなさい、新一』
「あ、ああ…た、ただいま……」
その後二、三言葉を交わしたような気がするが、よく覚えていない。
ただ、彼女の声が耳の奥で響くだけ。
受話器を置くと新一はその場にへたり込んでしまった。
先ほどまでの怒りはどこへ飛んだのやら、かわりに別の熱が彼の体中を支配する。
彼女が心配性なことはわかっているはずだった。
なのに。
おそらくは真っ赤になっているであろう顔を片手で覆いながら新一は思った。
彼女の口から実際聞くとこうも参ってしまうなんて。
どうやら俺は相当重症のようだ。
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彼と彼女は、小さい頃からずっと一緒。
隣にいるのが当然で。
何ひとつ本音を言えず、いつも他愛のない喧嘩ばかり。
それでも、傍にいるだけでよかった。
深く望んだりしなかった。
そんな時間がずっと続くと思っていたから。
ただ、それだけでよかった。
けれど、それは幻想。
大切な人など。
大切な時間など。
ふとしたきっかけで、簡単に奪われてしまうものだということを知った。
離れているのが辛い。
何も言えないのがもどかしい。
だから。
それを取り戻したとき。
二人は、お互いの位置を変えた。
「お待たせ、新一」
「おう、お疲れ」
放課後のチャイムが響く。
部活を終えた蘭は、図書室で暇をつぶす新一に声をかけた。
何かにつけて暇をつぶすのが図書室というのが、実に彼らしい。
毎日休まずにきっちり部活に出るのが、実に彼女らしい。
クラスメートでも知っているお互いの性質。
けれど、そんな言葉が浮かんでくるということが自分が相手にとって「特別」であると示しているようで。
幼馴染から恋人に昇格して日が浅い二人には、想いが溢れ出そうなほど嬉しいことだった。
開いた窓から風が吹き込んで、日に焼けたカーテンを揺らす。
下校する生徒達のおしゃべりや、まだ部活に励んでいる生徒の声。
木々のささやき、車の走る音。
とても静かな図書室の中では、いろいろな音が飛び交ってくる。
誰もいない空間。
授業の合間の休み時間や昼休みのように、クラスメートの冷やかしを受けることもない。
クラスでも、いつもこの図書室のように静かに、そっとしておいてくれたらいいのにと思う。
からかわれるのは、我慢できないほどではないにしろ勘弁してほしい。
あの騒がしいクラスメート達には無理な相談だろうというのはわかっているが。
夕日を背に受けて腰を下ろしている彼を。
窓から射しこむ夕日をいっぱいに浴びて佇んでいる彼女を。
そうとは気付かずに、お互いじっと見つめていた。
しばらく見ないうちに彼はずいぶん背が伸びて大人っぽくなった。
久しぶりに同じ目線で見る彼女はずいぶん綺麗になった。
口に出して言えないながらも、以前なら絶対に出てこなかったような素直な言葉が自然と頭の中に浮かぶ。
相手への想いが、前に比べてずっと大きくなっているのがわかる。
この想いはいったいどこまで膨らむのだろう?
どこまで二人は一緒にいられるのだろう?
答えは、出ない。
しばらくして、新一はまた本を読み始めた。
荷物を机の上に置いて蘭は彼に近づく。
「また推理小説読んでたの?」
「ああ」
彼女は、彼の読む本を覗き込もうとして少しかがんだ。
返事をしつつ、彼は近づいてきた彼女に視線をめぐらせた。
一瞬、近づきすぎて彼女が体を起こした。
不意に手が触れ合う。
互いの感触に、体温に、唐突に意識する。
かと思うと、反射的に必要以上に離れた。
彼に手を引かれて歩いたことも何度もあったのに。
彼女を抱きかかえたことすらあったのに。
前にはできたはずの何でもないことが、何故かできなくなっている。
どうして前はこんなに近くにいて平気だったのだろう。
どうして前はあんなに平気な顔で何でもできたのだろう。
思い出すだけでどんどん顔が熱くなる。
隣にいるのさえもとてつもないことのような気がして、なんだか顔もあわせられない。
無言のまま時が流れる。
はっきり言って気まずい。
俯いたまま蘭は思う。
「あんまり頭使いすぎるとハゲるわよ」とか可愛くないことでも言えば。
視線を宙に浮かせたまま新一は思う。
「何読もうと俺の勝手だろ」とか憎まれ口でも叩いてやれば。
またいつもの空気に戻れる。
他愛のない喧嘩ばかりのいつもの空気に。
彼女は顔を上げた。
彼は視線を戻す。
ほぼ同時に目が合った。
声が出ない。
緊張のせいで顔が強張っているのが自分でもよくわかるほど。
傍から見るとそれは、「見つめ合っている」というよりも「睨み合っている」というフレーズのほうがしっくりくるのではないか。
そして気付いた。
もう、いつもの空気には戻れなくなっているのだと。
ふたりの関係を変えようと思ったのは。
想いを口にしたのは。
離れたかったからじゃない。
なのに。
以前よりも、ちょっと離れてしまった体の位置。
突然、戸が開け放たれた。
と、同時に数人の生徒たちが入ってくる。
騒がしく何事か話しているが、二人の耳にはさっぱり内容が入ってこない。
ただわかったのは、声の主の一人はクラスメートであるということだけ。
しばらくして、彼らが二人に気付いた。
いやな予感が走る。
「何だ工藤に毛利、こんなとこで放課後デートかよ!?」
口を開いたのはやはりクラスメートの男子。
ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべてこちらを見ている。
ほかの生徒達も同じような顔をしている。
この中で知っているのは口を開いたクラスメート一人だけで、ほかは顔も名前も知らない。
けれど、だからといって向こうがこちらを知っていることは不思議でもなんでもない。
彼は有名だから。
校内だけではなく、日本中にその名前は知れ渡っている。
そして、その彼といつも一緒にいる彼女も。
そのため二人でいると何かと噂されてしまう。
当然、クラスでも注目の的。
夫婦だ何だと冷やかされるのはもう日課となっている。
以前はそんな冷やかしにも「うるせえ」だの「そんなんじゃないわよ」だの、言い返してやり過ごしていた。
今は。
言葉が、出てこない。
何と言えばいいのだろう?
からかわれるのは勘弁してほしい。
けれど、否定する理由を今は持ち合わせていない。
ずっと前から、二人はお互いのことしか見ていなくて。
でも、そうとは知らなかったから。
だからずっと、「ただの幼馴染」だった。
今は違う。
もう、「ただの」幼馴染じゃない。
いつまでも何も返してこない二人の様子に彼らは先ほどの発言を図星と取ったようだ。
「邪魔しちゃ悪い」などといいながらさっさと図書室から出て行ってしまった。
初めて何も言い返せなかった。
頭でなく、心で、わかってしまったから。
いつもの空気に戻れないのは、そういう風にお互いの位置を変えたからだということを。
もう、自分だけの一方通行の想いではないということを。
二人はきっと、同じ気持ちなのだということを。
なんとなく気持ちが軽くなる。
以前よりも、きっと少しだけ近づいている心の距離。
「帰るか」
「そだね」
短い言葉で促す。
陽がだいぶ落ちてきて、空は美しい朱色に染まっていた。
校門を出た頃、再びチャイムが響いた。
帰り道を歩く二人はずっと無言のまま。
体の位置も、不自然なまま。
あせらなくても。
ゆっくりでも。
この体の位置は、心の距離で少しずつ縮めていけばいい。
彼となら。
彼女となら。
きっと、縮められるはず。
夕日を背に歩く二人の前方に、長く伸びた二つの影。
どこまでも、ずっと一緒に伸びていきますように。
今はまだ言葉を音に出しては言えないけれど。
いつか、今よりもっともっと想いが膨らんだら、そのときはきっと伝えたい。
そう願い、横目で見やるとまた目が合った。
まだ少し緊張はする。
けれど、もう大丈夫。
今度はしっかりと互いを見据え、どちらからともなく笑った。
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夢や理想が現実に形作られるか否かは自分次第。
それならば――――――
この願いも、信じていれば叶う日が来るだろうか?
時折彼女は誰も見ていないところで暗い顔をする。
それは、台所で夕食の準備をしているときでもあるし、自分の部屋にいるときもそうなのかもしれない。
そして、今のように、自分が事務所のソファで子供らしくマンガを読んでいるときも。
ふとコナンはマンガから目を離し掃除をしている蘭のほうを見る。彼女はというと視線に気づかずに俯いて考えを巡らせていた。
何かを思い悩むように。
大きな瞳から、今にも雫がこぼれそうなほどに辛そうに。
そんな彼女に何と言えばいいのか、声を掛けられずにいた。
彼女が何に悩んでいるのか、なぜこんなにも寂しそうにするのか。
心当たりがないわけではない。当然だ。彼女の気持ちなど痛いほどよく知ってるのだから。
彼女は何度も、工藤新一への想いを、当の本人とは知らずにコナンにさらけ出しているのだから。
『いつかきっと、死んでも戻ってくるから、それまで蘭に待ってて欲しいんだ』
それは、紛れもない本心からの言葉だった。
ちいさな体で伝えられる精一杯の言葉。
けれど、その言葉の重みまでを考えてはいなかった。
待つ、ということの辛さに、苦しみに、気づいていなかった。
涙を流す彼女を見るたびに何度思っただろう。
自分が彼女をこんなにも苦しめているのならば。
その苦しみから解放されるのならば、いっそ忘れてくれてかまわない。
彼女の傍らにいるのが自分でなくてもかまわない。
……それで彼女が笑っていてくれるのなら。
「どうかしたの? コナン君」
溜め込んでいた息を吐き前髪を掻き毟ると、蘭がこちらを少し不安げに覗っていた。
「あ……なんでもないよ、蘭ねーちゃん」
慌てて顔を上げ笑顔を作って返事すると、
「そう? ならいいけど……」
と蘭は安心したようにいつもの顔に戻る。
いつもの笑顔に。
弱さをひた隠した、強さで塗り固められた笑顔に。
なんて浅はかで子供な考えだろう。
彼女を、彼女の笑顔を、守ることのできない子供。
他人に委ねることでしか彼女のすべてを守ることのできない子供の自分。
けれど、それでも。
いつか―――――元の姿に戻ったとき。
もっと、彼女のすべてを自分自身で守ることができるくらいに大人になれていたなら。
そしてそのときに彼女が工藤新一への想いを忘れずに抱き続けていてくれたなら。
情けない、と思いつつも。
「そうだ、コナン君、今日の夕飯何食べたい?」
ひとしきり掃除を終えてたずねる蘭の表情に、もう曇りは見えなかった。
彼女の笑顔を見つめることができなくて、陽が傾いてオレンジの光が差し込んでいる窓のほうを見やる。
一呼吸おき、再び笑って彼女のほうに振り返り、答えた。
「じゃあ……ボク、ハンバーグ食べたいな!」
「ふふっ、分かったわ。じゃあすぐ作ってあげるから待ってて」
「うん!」
たとえどんなに幼稚だと罵られても。
どんなに勝手だと蔑まれても。
この夕日を浴びて、再び工藤新一として彼女の隣を歩いていけることを。
……願ってしまう。
*みなみ作「今もし~」のアンチテーゼのようですがこのふたつはほぼ同時にできました
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「で?」
「なんだよ」
ちいさな、けれど清楚な雰囲気を漂わせる喫茶店に、高校生の男女ふたり。
遠くから見れば学校帰りにデートをするカップル、に見えるかもしれないが。
いたって平静を装う、端正な顔立ちの男と、その男をジト目で睨みつける茶髪の女。
そこにはどう見ても甘い空気など微塵も流れてはいない。
わかってるくせに、とカップにミルクを入れながら園子は内心つぶやく。
この状況でこちらが問いただしたいことなど彼にはお見通しのはず。
それは、彼に抜群の推理力を誇る名探偵であるという事実があってもなくても。
「だから、蘭のこと。大切なんでしょ? まさかほんとに他のやつに取られてもいいなんて思ってるわけじゃないでしょうね?」
ずずいっと身を乗り出す園子に新一はびくりと体を震わせた。真剣に見据えたかと思うとほんの少しだけ視線がずれている。よく見れば冷や汗すら流れている。
それほど恐ろしいことを訊いているだろうか、それとも自分の顔が怖いのだろうか。
文句のひとつも言いたくなるけれど、ここで堪えなければ園子さまじゃない。
負けてたまるものか。
一体何に対して負けるのかは謎だけれど。
体育館裏とか放課後の教室とかはたまた昼休みの屋上とか。
気になる異性に、手紙で放課後指定の場所に呼び出し、自分の想いを告白するというのは、カップルが成立する典型的なパターンだ。
いい加減古典的過ぎるこの方法は、それでも今日び恋するお年頃の思春期たちが最もよく使う告白方法のひとつではなかろうかと思う。
高校生にもなってもっと別の方法を思いつかないものかとため息が出るくらいだが、そう思うのは自分にすでに意中の相手がいるからなのかもしれないと、園子は今思ったことをふと反省した。
というのも、実際その古典的方法で告白しようという輩があらわれたからだ。
とはいえ、手紙――いわゆるラブレターを受け取った当の毛利蘭にはすでに想う相手がいる。そしてその事実は多少捻じ曲げられたり脚色されたりしているものの、校内の生徒ほとんどが知っているはずだ。
よほど彼女を想う気持ちが強いのか。それともただ知らないだけなのか玉砕覚悟なのか。
蘭の想いの強さを知る園子には、その告白劇の結末は虚しくなるほど手に取るように知れた。
はっきり言えば、蘭にとって、想い人以外の男からの告白など迷惑以外の何者でもない。
しかし迷惑といえどお人好しの彼女に相手を傷つけるという選択肢がないため、今頃は断るのに必死になっているのだろう。
手紙を受け取ったというその一連の流れは、当然といえば当然だが、彼女と自分と同じクラスにいる、そして今目の前にいる男、工藤新一の耳にも嫌でも入る。言わずもがな、蘭の想い人その人である。
蘭はどうやら未だに自分ひとりの片想いだと思っているようだが、彼のほうも彼女のことを想っているのは一目瞭然。誰がどう見ても。
しかしこの男は、蘭のそんな話に何も気にしてませんといった顔。あろうことか、これから告白を受ける蘭を置いてさっさと帰ろうとする始末。
新一のその態度に業を煮やした園子は、彼をその辺の適当な店に無理矢理引っ張り込み、急遽『即席蘭ちゃんラブラブ大作戦~親友のために立ち上がれ、負けるな園子さま~』を決行することになったのだ。
むかしから知っているこのふたりの距離感は、いつまで経ってもつかず離れず。醸し出す雰囲気は夫婦そのものなのに。
明らかに両想いなのに。
恋人同士になれないのは、はっきりきっぱりすっぱりこの男のせい。
彼女は待っているはずだ。彼の言葉を。
いつまでも距離が変わらないのはこの男が動こうとしないからだ。
いい加減にしろと怒鳴りたい。
誰の迷惑も考えずひたすら説教かましてやりたい。
入れたミルクをスプーンで掻き混ぜ、カップを持つと張り詰めた空気がわずかに振動した。
「当たり前だろ」
はっきり言い放った。
が、やや赤く染まった頬を隠すようにうつむくその顔は結局隠れていない。
必然的に訪れる沈黙……のはずが。
「そ。ならいいけど」
沈黙を押しのけた園子はそのまま手に持ったカップを口元まで運び、黙ったままの新一をしばらく眺めていた。
自分で訊いておきながらおかしな話だが、彼はこの手の質問には「そんなんじゃない」とか否定するか冗談でかわすと思っていた。
しかし、少し矛盾する気もするけれど、もしもそうなら大問題だ。ことは急を要する。大袈裟だろうか、いやそんなことはない。
蘭が彼に対してどれほどの想いを抱いているのか、彼女の隣にいた園子はよく知っている。
そして今ならば推理マニアで事件のことしか頭にないような彼だって、そんな蘭の気持ちに多少なりとも気づいているはず。というかもっと前から知っとけむしろそのくらいさっさと推理しろとも言いたいくらいだが。それはまあ置いといて。
だからこそ、たとえ照れ隠しであろうがなんであろうが否定するなど言語道断。彼女の親友として、一刻も早くこの優柔不断男など忘れろと促せざるを得なくなってしまう。
気づいていながらなお彼女を待たせるなど。
これ以上彼女を傷つけるなど。
断固として許すわけにはいかない。
一発二発殴ったところで気の収まる問題じゃない。蘭がいいと言ったってこっちが許さない。
そう思っていたのだけれど。
目の前にいる彼はどうだろう。
自分の顔が赤いと気づいて慌ててポーカーフェイスを繕おうとしているが、バレバレなので見ているこちらからすればなんとも滑稽な姿。
探偵業では平成のホームズと呼ばれるほどの彼も、色恋沙汰が絡めばただの高校生。こんな調子では下手すれば小学生レベルかそれ以下だ。
そして、先の言葉。
”好きだ”とか、そういう言葉を直接言ったわけではない。
ただ、当たり前だと言った。それだけ。
―――――ああ、なんだ。
私が心配する要素なんて何もないじゃない。
『大切なのか』という問いに対して当たり前だと答えた。
直後に赤面して無言になってしまうなんて初々しい反応ではあるけれど、それでも否定もせずに当たり前だと言った。
周囲がとっくに知っているからとかそういうことではない。
彼女を大切に想うということが彼にとってごく自然で当たり前のことなのだ。
この期に及んでまだ優柔不断なことを言ってるようなら本気でぶん殴ってやろうかと思ったのに。
そんな風に言われてしまったら園子さまの言うせりふがないじゃない。
意外にも予想外の展開に驚く。
こやつもずいぶん素直になったものだ。
親友を思えば嬉しいはずなのに、なぜか負けた気分になるから悔しい。
「なら今から行って告白現場邪魔して蘭を奪ってくるのね」
「……なっ」
「ほんとに蘭のこと大切に想ってるんならそんくらいできるわよね?」
悔しいからといたずらっぽく微笑んでけしかける園子に、しかしそれで怯むかと思えば、真っ赤になってやや考え込んだ後、勢いよく立ち上がり新一はさっさと店を出て行ってしまった。
店の窓から見えた彼の行く道の先には、学校がある。
またもや予想外の展開に、溢れ出る意地悪い笑いを噛み殺すのに必死になった。
さて、明日はどんな風にふたりをからかってやろう。
*この新一は偽者
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ひとり残された暗闇のなかで、遠い意識のはてに水の音を聴いた。
次第に形作られていく影は、どんなに追い求めても意識とは反対の方向に遠ざかっていく。
そして
影と音は消えて暗闇だけが目の前に残った。
肌に冷気を感じて意識がはじけた。
のろのろと目を開けると、すぐ近い場所から静かに、聴き慣れた声がかかる。
「気分はどう?」
紡がれたソプラノの声のするほうに目をやると、やはり見慣れた顔があった。
しかし、頭が重くて文字通り首が回らない。頭上に岩でも乗っているかのような重圧を感じる。
それは決して、額に掛けられている水分を含んだタオルの所為ではない。
返事だけでもと思い、声を出そうとするが、喉笛も上手く機能してくれず、口から漏れるのは塩梅の悪い空気だけ。
そういえばなんだか喉の奥が熱くてカラカラする。というか、身体全体が熱い。
重いのは頭だけでなく、全身だとぼんやり感じた。
体調不良の兆候を感じていなかったわけではない。
ただ体調管理よりも優先させるものが多かっただけだ。
誰に言うでもなく、何とはなしに頭の中で言い訳をする。
つまりは、風邪でダウンした。それだけのことだ。
昨日の夕方だったと思う。ちょうど彼女――蘭が夕飯を作りに来てくれたときだ。居間で彼女と話をしていた辺りから記憶が途切れているので、恐らく間違いないだろう。
彼女の服装が記憶の中と変わっていないところからすると、昨夜から泊まり込んで看病をしてくれていたのだろうか。
部屋の時計がこのベッドからはよく見えないけれど、窓からの陽の射し具合いから、大体10時か11時位だろうと予測する。
その間ずっと眠り続けていたらしいとなると、風邪は割りと深刻だったらしい。
我ながら情けない、と自重の念がよぎった。
「新一、おなか空かない?」
記憶を辿っているとふたたび彼女の声が降ってきた。
言われてみると昨日の夜から何も食べていない。
特に胃が主張している気配はなく、寧ろだるくて食べるのが億劫なのだが、風邪のときは栄養と休息が必要だ。何か胃に入れたほうがいいだろう。
なんとか頭を動かし頷くと、「じゃあお粥作ってくるね」 と言い残しパタパタと部屋から出て行った。
そう、部屋から。
ここは自分の部屋だ。
昨夜意識が途切れる前までいた場所は、居間。それが、現在自分の部屋にいる。
万年新婚気分の両親は仕事で海外にいて、この家には新一一人。昨夜ほかにいたのは蘭だけ。
ということはつまり。
眠りこけて力の抜けた男を、女である彼女が部屋まで運んでくれた、ということだ。
それはいくらなんでも……
(…………情けなさすぎだろ)
彼女が空手で毎日身体を鍛えていて、その辺の女性よりも腕力があるということを差し引いてもだ。
本当に、情けない。
自分のことながら、ここまで脱力してしまう出来事が今までにあっただろうか?
思わず溜め息をつく。
と、自分の吐く息の大きさに驚いた。
そんなに思い切り呼吸したつもりはないのだが、静かな分よけいに響いたらしい。
布団の中にいるため、音が反射して耳に届くまでの距離が短いから、というのもあるだろうが。
先ほど、蘭が部屋にいたときは特に気にも留めていなかったが、この部屋には音がない。
置いてある時計はアナログだが、秒針がないので時を刻む音すらも聞こえない。
窓の外は人も車もそれほど通らず、入ってくるのは陽射しだけ。
さらに言えば、普段から他の部屋にだって音はない。時計の音などあっても微々たるもので、各部屋の戸を閉め切ってしまえば漏れることはなく、この家の住人である新一自身が奏でなければ他に音の出所はない。
強いて言うなら、隣りに住む阿笠博士が変な発明品で爆発を起こしたときくらいだろうが、それだってこの家の中では、聴く者がいなければ無きに等しい。
最初にそれを感じたのは、両親が海外に発って2~3日ほどしてからだった。
居間でテレビを見ているときに、ふと違和感に気付いた。
普段からがちゃがちゃとうるさいわけではない家の中において、それでも『生活の音』 がまったく感じられない空間にいるという違和感。
寂しいとか、不安とか、そういう感情ではなく。漠然と『独り』 を感じた。
それならば。
彼女は、この部屋にいて何を感じただろう?
今、炊事しているときは、いい。
水道、包丁、鍋、食器。他にも色々な楽器があるからきっと台所は賑やかになるだろう。
しかし、昨夜眠りついて先刻目を覚ますまでの間、傍らで彼女は何をしていたのだろうか。何を思ったのだろうか。
この部屋で、この家で。
唯一彼女以外に音を奏でてくれるはずの自分が眠り続けていて、同じように『独り』 を感じたのだろうか―――?
部屋の外からパタパタと足音が聞こえてきた。
それを聞き起き上がると、布団の衣擦れの音さえもやけに響く。
こんな些細なことひとつひとつが気になるなんて、随分感傷的なことだ。
これも、風邪の所為か?
思わず自嘲の笑みが零れた。
「新一、お粥できたよ」
声と同時に戸が開いた。
彼女が入ると、またこの部屋は音で埋まっていく。
「起きてて大丈夫? 食べられそう?」
盆を持ちながらの安定した足取りと心地よい高音が、先刻までの気分を吹き飛ばしてくれた。
それは決して賑やかではないけれど。
穏やかで心地よい音だ。
ゆっくりと盆を置く彼女から茶碗を受け取ろうとすると、何故か彼女は楽しげににこにこと笑っている。
一体何が楽しいのかと尋ねようとしたところに、彼女から爆弾が投下された。
「新一自分で食べられる? わたしが食べさせてあげようか?」
一瞬何を言っているのかわからなくて本気で考えた。
『食べさせてあげようか』 ということは、自分で食べるのではなく、口に運んでくれるということだ。
待て。
口に?
どうやって?
いやそもそも誰が?
考えた末、我に返って頭が爆発するかと思った。
却下。断じて却下だ。何故とか訊かれても困る。とにかく却下だ。
「いいよ、自分で食える」
「でも声ガラガラよ? 風邪酷いんじゃない?」
たしかに今日初めて発した声は思いのほか枯れていたが、食事に声は関係ない。
なおもにこにこ笑い続ける蘭かられんげを引ったくった。
からかわれている。
幼馴染とはいえ同じ年齢の、しかもオトシゴロの男の家に泊まりこんで無防備な姿をさらすようなこの彼女に駆け引きとかそういうことを企む様子は見られない。
完全にからかわれている。
そんな、少々悔しい気分になりながら粥をすすり始めた。
料理上手な彼女の腕を疑う要素は微塵もなく、粥は熱いまま喉を通り過ぎていく。口当たりの良い、さっぱりした味付けがありがたい。
食事風景を見られるというのは意外にも困るもので、食べている間所在なさげにずっと蘭がこちらを見ているのが気になったが、この部屋で彼女の興味を引くようなことなど一つもないのだから仕方ないだろう。
あえて彼女のほうを見ないようにして食事を続けていたが、これが実は結構辛かった。
否が応にも目に入る。
というか、彼女を見ること自体は決して嫌ではないのだが。それはまあ置いておくとして。
ゆっくりとしたペースではあったが、少しずつ粥を平らげていく時間は、困惑こそしたものの不快ではなかった。
食事もゆっくりなら、流れる時間も緩やかだ。時間の速さは毎日そんなに変わりはないはずなのに。
「昨日よりもだいぶ顔色がいいみたいね。この分だと明日には治ってるかな?」
昨夜の夕飯用にと買ってきてあった(蘭が買った) りんごを剥きながら、彼女はきれいな音域を保ったままの声で、こちらが負担にならない程度に話しかけてくる。
食事を摂ったからといってぼやけた頭が活発になることもなく、生返事をしながらただぼんやりと彼女の手つきを見つめていた。シャリシャリと剥かれていくりんごが何かとても特別なものに見えた。
別に普通のりんごだ。なのに何か違う。
違うのは、何だ?
窓の外では光がずいぶんと角度を変えていて、もう部屋まで射し込んではこない。
それもそのはず、時計を見ると起きてからすでに2時間が経っていた。
そういえば――――日中家の中にこんなに長い時間篭っているなど、ここ最近はまったくなかったように思う。
普段からあくせくしすぎて時間の本来の流れが見えなくなってしまっていたのだろうか?
風邪で寝込むことがなければ気付かなかったということだろうか?
気付いても、気付かなくても、時間は変わらず流れ続けるのに?
誰にも問うことのない疑問に答える者は当然いるはずもなく、そのまま差し出されたりんごと一緒に飲み込んだ。
「そういやオメー、今日遊びに行くって言ってなかったか?」
起きてからこっち、自分のことばかり考えていて思考が追いつかなかったが、弾けたように思い出した。
昨日が土曜日だったのだから当たり前だが今日は日曜日だ。彼女には彼女の予定があったはず。
先日蘭の親友の(自分にとっては悪友でもある) 園子に誘われていたのを新一は知っている。
ただでさえ週に何度か彼女に食事を世話になっている身であるというのに、その上休日まで彼女の自由時間を拘束してしまっては、情けないを通り越して最悪だ。
しかし彼女は咎めるような口調で言った。
「病人置いて遊びに行けるわけないじゃない?」
何言ってるの、もう! と口を尖らせてりんごの皮を片付けている。
「そんなことより、食べたらまた少し休んだほうがいいんじゃない?」
普段から家事や部活に追われていて、おそらくは自分よりもずっと忙しい思いをしている彼女の足をなるべく引っ張りたくはないと思っているけれど。
それなのに食事の世話をしてくれていて、さらには親友との約束を『そんなこと』 で済まし、こちらの身体を心配してくれている。
園子には悪いが、不謹慎にも嬉しいと、思ってしまった。
「これ、片付けてくるね」 と盆を持ってまた部屋を出て行く彼女を横目に、布団を剥ぐ。
服のまま寝ていたのではやはり寝苦しいと思い、静かな部屋で着替えをはじめた。
一応、靴下を脱がせ、シャツの首もとのボタンを外してくれてはいたが、さすがに女性である彼女が寝ている男の着替えをするのはまずいだろう。いくら彼女がその方面に鈍いといえ、その辺はちゃんと常人の感覚が働いてくれているようで安心した。
初めからわかっている。
もう、ずっと昔からとっくにわかっていたことだ。
彼女が奏でる音ひとつひとつをこんなにも心地よいと、特別なものに感じるのは、何も風邪で弱気になっているからだけではない。
しかし、今更になっても何度も思い知らされるようでは、この病気は一生治らないのではないかと思ってしまう。
不治の病というやつか。
着替えが終わると同時に、計ったように彼女が戻ってきた。
あとは寝ていればいいだけ、というのに、律儀に彼女は看病に徹してくれる。
眠りに入ればまた、彼女にとって音のない時間が訪れるのだ。
なるべく起きていたいという気持ちと裏腹に、体力がまだ本調子ではないらしく、布団にもぐりこむとすぐに睡魔が襲ってきた。
冷たく濡らしたタオルの感触を額に残したまま抵抗もできずに目を閉じると、囁くような声が近くに落とされた。
「おやすみ、新一」
しかし、意識はまだ保ったまま。
眠ったと思われてしまったのでは話し相手になることもできないわけで、実際そんな体力すらもないというのに、実に無駄な抵抗であるといえる。
しかし、どういう形であっても彼女を、この空間に置き去りにはしたくない。
この隙に帰ってもらうのが一番いいのだが、先ほどの発言からしてそれは望めない。
意味のないことをだらだら考えて睡魔と闘っていると、空気が振動したように感じた。
音はない。けれど、確かに動いている。
ぼんやりと目を開けてみると、先ほどまでそこに座っていた彼女の姿が見えなかった。
かたん、と音が鳴る。
ベッドの横の棚に飾ってあった写真立てを置き直す彼女がこちらを向いた。
「あ、ごめんね、うるさかった?」
この部屋の何に興味を示したのか、相変わらずにこにこと笑っている。
引きつるわけでも作るわけでもなく、極自然な、よく知った無邪気な笑顔。
――――――ああ、そうか。
首を横に振ると、また目を閉じた。
空気も再び振動し始めた。
彼女は、この部屋で『独り』 と感じてなどはいない。
どんなに無音の空間にいても、音を生み出すことができる彼女の強さを知った。
部屋の中は、音で埋まっていく。
それは決して賑やかではないけれど。しかし、静かでもない。
穏やかで心地よい音のなか、今度は意識を手放した。
ひとり残された暗闇のなかで、遠い意識のはてに水の音を聴いた。
次第に形作られていく影は微笑む彼女の姿をしていた。
目の前に広がった暗闇は、
彼女の音に彩られて色を成していく。
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(ああ、帰ってなかったのか)
(つーかおっちゃんに何て言って出てきたんだ?)
(今からでも起こして帰らせるべきか?)
控えめに灯された明かりの下の光景に、コートを脱ぐのも忘れて思考を巡らせた。
ダイニングテーブルの上に手付かずのまま用意された、その日に相応しい料理と食器。ここにはないが、おそらくはケーキも冷蔵庫に冷やしてあるのだろう。
そしてそれらを用意した張本人は、テーブルの上に顔を伏せて可愛らしい寝息を立てていた。
特に約束していたわけではないが、ほぼ暗黙の了解のようにその日の夜は彼女と一緒に過ごすことになっていたのだが、まあ、もういっそ笑いすらこみ上げてきそうなほどに予感が的中してしまい、その予定はものの見事に崩され、無遠慮な事件に呼び出された。
もっともらしい偽装工作やらややこしいアリバイ証言やらにさんざん惑わされ時間が掛かったのは焦りも確かにあったのかもしれないが、誰がそれを責められよう。
珍しくあまりの腹立たしさに、あの愚かな犯人に対して精神的に二度と立ち直れなくなるような台詞でも吐いてやろうかと思ったが、それをしなかった大人な自分を褒め称えてすらやりたい程だ。まあ、一時の感情にまかせて人一人の人生を壊すような真似は元々望むところではないのだが。
なんにせよ事件が殺人未遂で終わったことが唯一の救いといったところか。
事件があれば気にはなるし、推理すること自体は好きなのだが、いくらなんでも時と場合というものを考えていただきたいものだ。いつもいつもよりによって肝心なときに!
(と言いつつも事件現場で誰よりも生き生きしていたのは自認する。)
事件がとりあえず片付いて(取り調べやらなにやら事後処理が残っている)、そんなことを考えながら帰路についた頃にはすでに日付が変わってから一時間以上経過していた。
口にこそしなかったが、今夜(いや、もう『昨夜』か?)のことを彼女がとても楽しみにしていたことは知っている――というかあの浮かれ様は俺じゃなくてもわかる――し、それは此方も同じことだ。何しろ、想いが通じ合ってから初めて迎える日なのだから。
ああそう考えると電話の呼び出しにあっさり応じた俺も悪いんだよな事件だけが悪いんじゃないそうだ断れば良かったんだ俺は馬鹿か!
今更気付いたところで後の祭り。というか、気付いていたとしても実行に移されることなどないだろう。彼女の大馬鹿推理之助というネーミングはなんとも見事に的を射ていて、初めて賞賛を贈りたくなった。
夜が明けたら彼女から電話で開口一番怒鳴られるかもしれない。それともいつぞやのようにしばらく口を聞いて貰えないか。それは少し困るな。
溜め息を吐きつつ家に入ると、玄関には彼女のものと思わしきブーツと、家の中から人の気配。
――でまあ、冒頭に至るわけだ。
まさかこんな時間になるとは思っていなかったのだろう(俺だって思いたくなかった)、起きているつもりがいつの間にか、といった所だろうか。
しかしそれでも、
(……待っていて、くれたんだな)
申し訳なくて胸が痛むやら、嬉しくて顔がニヤけるやら。伏せているため表情を測れない彼女に、若干複雑な気持ちになる。
だが、この冷えきった心にぬくもりをくれた彼女に言いたかった言葉は、『ごめん』でも『ありがとう』でもなくただひとつ。
少々遅くはなったけれど――
「……メリークリスマス」
そう呟いて、眠る彼女のサラサラの髪をひと掬い、口付けを落とした。
――少なくとも俺にとっては、この瞬間まで聖夜は続いているのだから。
*ブログにのっけた小ネタ。新一ひとりごと多い(笑)
written by まきの